料理

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私は、高校から親元を離れて生活してきたこともあって基本自炊です。
独立してからは、基本的に3食(夕飯はあくまで軽くなので、2.5食でしょうか)自分で作っています。
が、やはり一人で食事をするのは味気ないもの。好きなものを作って食べますが、やはり誰かと一緒に食べると満足感が違います。

そんな食事について、ソナタと話してみたいと思います。


AnyShing:食事というか料理って、自分のため作るとちょっと平坦な感じがするんだよ。

ソナタ:料理もそうなんだけど、人が作り出すものはその人の想いが乗る。それを受け取る人がいて、エネルギーの循環が生まれる。
だから、自分で自分のために料理したものは、元は自分のエネルギーだから、受けるものに違和感が無いのでそう感じるのかもね。

A:なるほど。でも、おむずびのことをBlogにも書いたことがあるけど、僕は自分にパワーが欲しいとき、自分で作ったおむすびを食べるよ。
そのとき、何となくだけどエネルギーをもらった感じもある。

ソ:あのおむすびというものは、何だか特別だよね。手のひらから出るエネルギーを溜め込むすごくいい形、材質なんだ。しかも凝縮された形で込められるから、それを食べたときにたとえ自分のエネルギーであっても、それをしっかり感じることが出来るんだ。
でも、普通の料理は箸なりへらなり、道具を介するからそこまでダイレクトにエネルギーはこもらない。ちょっと変わった形になるんだ。

A:ちょっと変わった形?

ソ:素材に寄り添うような感じで、エネルギーの波動が変わる。だから作った人のエネルギーの波動そのものではなく、素材の持つエネルギーにミックスされる感じなんだ。

A:素材と作り手のエネルギーの合わせ技が料理だと。そうすると自分に作るのと他の人に作るのでは、やはりエネルギー的に変わってくるんだね?

ソ:エネルギー論的になってしまって若干味気ないのだけどその通り。
でも、他の人に作る料理に乗るエネルギーは、作り手の想いだからとっても暖かいものだよ。それを受けての食べる人の「美味しい」と思う幸せな気持ちも本当に柔らかくて暖かい。その気持ちのエネルギーを受けて作り手も幸せな気持ちになる。すごくいいエネルギーの循環だよね。

A:身も蓋もない話だけど、せっかく作ってくれた料理が美味しくなかったら?

ソ:それは、作り手、受け手のどちらか、あるいは双方に何か波動的なズレがあるんだろうね。波動が合っていれば、味覚的なズレがあっても幸福感を感じるものだから。極端に言えば、どんなにしょっぱかろうが、辛かろうが、その料理から受ける作り手の食べてもらう人への想いは伝わるはずだから。
「すごい味だけど、何だかいいな」と思えるもんだよ。技術はプロセスだから本質ではない。もちろん技術があることに越したことはないけどね。笑

A:やっぱり作る人と食べる人のコラボレーションなんだね。

ソ:食事というのは人にとってはとても大切なもの。もちろん生きて行くためでもあるけど、それ以上にエネルギーの善循環なんだ。素材の持つエネルギーに作り手のエネルギーをミックスさせたもの。それを食べる人が受け取って幸せなエネルギーを出して、それを作り手が受け取る。そういう善循環。
それが、感じられるような機会を多く持つとよいと思う。

A:僕も息子にもっとちゃんと料理を作ってあげたいと思うよ。

ソ:それがいい。いいエネルギーの循環は双方にとってすばらしい浄化にもなるしね。

A:そうだね。ありがとう、ソナタ。


とのことでしたが、ソナタが料理をする人を「作り手」と終始言っていたのが印象的でした。
「料理人」とか「料理する人」みたいな表現なのかと思っていたのですが、「作り手」ということで、料理が上手かろうが下手だろうが、「食事を作る人」全てという意味なのだと思います。

自分に作るのも、他の人に作るのと同じような気持ちで作ってあげるとよいのかもしれませんね。

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