許すには広い視野も必要

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前回の台風の時もそうでしたが、台風本体が過ぎ去った翌日に強風が吹き荒れている東京です。
空はこれ以上ないくらいにクリアに晴れているのに….。

ちょっと窓を開ければ、いつもより効率よく部屋の空気の入れ換えが出来ます。笑

っと、この強風、木枯らし1号だそうで….。秋は台風が吹き飛ばしてしまったようです…。orz

毎朝、朝食の後は、タブレットでニュースサイトや情報サイトを読むのが習慣なのですが、今日、その中の一つを読んでうーーん、と思ってしまいました。

BuzzFeedというニュースサイトに載っていた記事。

日本でイスラム教の子供に生まれてしまった僕の話

父親がイスラム教徒、母親が日本人の青年のTwitterでのつぶやきについての話です。

詳しくは記事を読んでもらえればと思うのですが、

父親がイスラム教徒だというだけで、いじめを受け、避けられ、差別され、中学に入ると暴力を受け不登校に…。
そうした外部からの心無い仕打ちも酷い話なのですが、一方で厳格なイスラム教徒である父親からも、人格を否定されるような仕打ちをされてしまいます。

父親は、この青年を自分の母国に連れて行き、長期滞在したりもしたそうです。
しかしそれは彼にとって、辛い経験でしかありませんでした。
日本での教育は中学までロクに受けられず、無理やり民族衣装を着させられ、見世物のように連れまわされた、と書いています。しかも反抗するとベルトで殴られる….。
高校の頃には、父親の暴力がエスカレートし、言葉の暴力だけでなく椅子やバットで暴力を振るうように。

家の外にも中にも逃げ場がない状態。これは地獄です。

中学3年の時に郊外の学校に転校してからは、特別視されることなく普通の学生生活を送れるようになったのは幸いです。

親元を離れて遠方の高校で、初めての出会うものがアニメだったと言います。
父親にとって、アニメに出てくる女の子の衣装が、イスラム教の戒律に触れるとそれまで見せてくれなかったのだとか。

そこから彼は、日本に生活する一人の人間として、普通に生活してゆきます。
豚肉も食べ、とんこつラーメンも食べ、酒も飲みます。

本来、宗教とは人を苦しみから救い、心の支えとなるべきものなのに、この青年はその宗教ために常に追い詰められた子供時代を過ごすことになってしまいました。

なぜ、そんな事になったのか。彼はこう言っています。

「父は、他宗教の知識がないんです。もちろん他の地域のイスラム教も知らない。だから、自分とは違う人のことは認められないし、息子の僕に『厳格なムスリムとして自慢できる存在であれ』と思っているんです。宗教というか自慢したいか、みたいな」

もし、彼の父親がもっと他の宗派や宗教の事を知っていれば、もっと寛容に彼のことを見ることが出来たかもしれない。

スピの世界では、人も許して、自分も許せ、とよく言います。
しかしながら、そこには自分と違う価値観を受け入れる土台が必要になります。これは顕在意識レベルでまず必要になることです。つまり、広い視野をもった知識です。

人に勉強することが必要なのはこのためです。

自分と違うものを受け入れる、知らないことを受け入れる。そういう顕在意識での訓練を経ていないと、潜在意識での受け入れが非常に難しくなってしまいます。顕在意識がブロックするからです。

前にも書いたかと思いますが、私は宗教は、高次の存在と世界を理解するために、現世の人にとって判りやすい表現をしたものだと思っています。
結局、どの宗教も言っていることは同じ(まあ、新興宗教の中には、それはちょっとというものもありますが。汗)に感じます。

その中で、キリスト教にしてもイスラム教にしても、神は唯一無二のものとされています。
そうした方が、ヨーロッパや中近東の人たちにとっては判りやすかったし、受け入れやすかったのでしょう。

その一方で日本人は、神は万物に宿るとしました。
そのうち、大陸から仏教が伝わってきて、混乱するかと思いきや、仏教も神道もごっちゃにしてしまうほど寛容でした。

日本人は元から、広く万物を見る習慣がついていたのですね。

往々にして、イスラム教が危険視されるのは、その戒律の厳しさが根本原因にあると思います。
豚肉、酒、ギャンブル….豚肉は別として、酒もギャンブルも堕落につながるものではありますが、それを完全排除するのはなぁ、と思います。排除の理論はやはり軋轢を生みます。
(モルモン教などはさらに厳しい戒律がありますが、そこにムチ打ちなどの暴力的な罰則はないです)

キリスト教も厳しい教えのカトリックは、かつては十字軍まで結成して他国に攻め入ることまでしていますね。
(まあ、その裏には領土拡大の政治的目的がありましたが…。)

まあ、イスラム教もかなり緩い宗派もあるそうで、酒、豚、ギャンブルOK、1日5回の礼拝の義務もなし、というのもあるようです。そうやって軟化してくれればなぁ、と思います。

もちろん、イスラム教もキリスト教も否定するつもりは、さらさらありません。
何を心の支えにするかはその人の自由です。ただ、その宗教が人を追い込む形になってしまいがちで、それを避けるには、周りの人たちの理解だけでなく、その人自身の寛容さ、柔軟さも求められるのだと思います。

その寛容さ、柔軟さを生むには、視野の広い知識も必要だということです。

スピの世界では、とかく潜在意識やその奥の魂にフォーカスされがちなのですが、実際現世で生活し、魂を磨くには顕在意識の訓練も必要で、要はバランスを取ることが重要なんですね。

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