2015年11月の記事です。
今日の明け方(現地時間の昨日夜)、パリで痛ましいテロ事件が起きてしまいました。
犠牲になられた方々に哀悼の意を表します。
犯人は、イスラム原理主義のISだと言われています。
彼らは数々のテロ行為の他にも、偶像崇拝を認めず、遺跡の破壊なども行っていると聞きます。
彼らの信仰するイスラム教は唯一神が預言者ムハマンドを通じて下ろした教え(コーラン)を信じています。
これは、キリスト教が神の教えをキリストが伝えた、仏教ももブッダによって伝えられたと、非常に似かよった形態をとっています。
どれも、神と民衆の間に媒介となる人物が存在しているのです。
私が思うに、「神」とは高次の存在であり、「宗教」はそれぞれの教祖と言われる媒介者がある高次の存在を知り、自分の解釈を踏まえて表し、伝えたものが民衆の支持を受けたものだと思っています。
つまり、表現は違えど結局は同じ事を言っていて、「自分を見つめなさい」その上で「他人を見なさい」。「全てはつながっている」「神は自分の中にいる」….etc。
何が言いたいかと言えば、もしかすると同じ高次の存在を見て、そこからの気付きをそれぞれの感覚で説いていたのではないかということなのです。
おそらく真理は一つです。
どの宗教も向かっている方向はその一点です。
それを自分の思い込み、都合のよい解釈で短絡的に行動してゆくと、極端な結果がISのような集団を作り出すことになると思うのです。
私が神道を好きなのは、教祖もなく経典もなく、いわば自然発生的に興った自然の真理を判りやすく「神」というものに置き換えて伝えてきたものだと思うからです。
なので、神道では万物に神が宿るとしています。全てに意味があり、存在が尊いと考えます。それが自然だと思えます。
どの宗教を信仰するかは、もちろん各々の自由です。
でも、その宗教を建前にして他を排除することはあってはならないことです。
別の宗教だから違う考えだ、相容れない相手だと見る目を狭めて突っ走ることはしてはならないんです。
元は一緒なのですから。
一見違うと見えても、とどのつまり同じ事を目指し、同じ方向に向かっているんです。
表面に見えているものが違うだけです。
宗教戦争は何世紀も前から行われてきました。
一神教の弊害としか考えられません。
というより、宗教を利用したほうが民衆をまとめやすく、覇権を握ることに便利だと利用されてしまったというのが実情ではないかと思います。
人のすがりたい気持ちを利用するなんて、詐欺ですよね。
「宗教」と聞くと「うさんくさい」とどこかで感じるのは、こういうことなのかもしれません。
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