徳川家康と東照宮 ~過去記事~

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2016年1月の記事です。


普段はニュース程度しか観ないのですが、正月時期は特番が多いので、結構TVを観ています。
制作側も力入ってますしね。笑

そんななか、お坊さんがたくさん出るバラティ番組の特番で、日光東照宮と徳川家康について取り上げていました。
その番組の終盤、ミステリーと称して、家康の墓に関する位置関係について紹介していました。


家康と言えば、大権現になり祀られている日光東照宮が有名ですが、最初に埋葬されたのは最後の居城である駿府城近くの久能山東照宮でした。ここの家康の墓標が西を向いており、その方向を延ばしてゆくと生地である岡崎を通り、京都にほぼ一直線に結ばれているというものでした。
また、久能山東照宮と日光東照宮を結ぶ直線上に富士山があるのもミステリーとしていました。

これは、豊臣家の残党がまた謀反を起こし、再び戦乱の世にならないようにという意味がこめられていると番組では解釈していましたが、これは誤りがあると霊的に感じています。

西方に睨みを利かせると言う意味では合っているのですが、それはむしろ京都の公家に対してです。
天皇家ということではなく、その取り巻きの公家衆の残党に対してです。
基本的に将軍も天皇から拝命されるものであり、そういう意味でも形式的としても天皇の権威は将軍よりも上だったことを考えれば、その取り巻きがまた別の将軍を立てる算段を始めれば、また戦の世になってしまうのは必定です。
家康はそれを防ぎたかったのです。

また、久能山東照宮から日光東照宮への直線上に富士山があるのもこれに通ずるものがあります。

家康は慶長9年(1604年)に富士山浅間神社大社を建立し、ここに木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を富士山を山体神として祀ります。
木花咲耶姫は天照大神の孫、邇邇芸命(ニニギノミコト)の妻であり、父である大山津見神(オオヤマツミノカミ)から富士山を譲り受け、東日本全体を鎮守することになります。

つまりは、自分は久能山東照宮から京都に睨みを利かすにあたり、その後押しとして富士山の木花咲耶姫命の力を借り、さらにの後ろで権現として鎮座するという陣形をとったものです。

基本的にお坊さんメインの番組ですので、神道の影響はできるだけ見せないようにしていたのかもしれません。
しかし、家康の本意は上記のものだったと感じられますので、その辺はもう少し工夫して見せてほしかったところです。

正直、ミステリーでもなんでもないのですけれどもね。笑

さて、明日からは正月気分を一新して、通常運行に戻りたいと思います。笑

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